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住職雑記2~幸不幸を他者に決めつけられたくない~

 今日は叔母の話をさせていただきます。拙僧の叔母は、若くして最愛の夫を亡くしました。叔父と叔母は周りからも「おしどり夫妻」と言われ、お互い強く信頼し、本当に愛し合っていたのです。しかし、突然病魔が叔父を襲い、そのまま帰らぬ人へ・・・・・  叔母にとって、その後それは辛く悲しい日々だったのです。来る日も来る日も思い出されるのは叔父の姿。毎日眼を腫らしていました。そんなとき、創価学会を信仰している叔母の同級生が家を訪ねたのです。

同級生

「何で主人を早く亡くす不幸になったか?それは間違った信仰をしているからだよ!!」
     
「正しい御本尊におすがりすれば、絶対幸せになるし、ご主人も成仏するよ!そうしないとあの世で今頃苦しんでるんじゃないの?」

叔母 

「あんた、いくら幼なじみだっていったって失礼じゃないの。こっちは主人を亡くして喪に伏しているのに」
     
「それに、言わせて貰うけど、確かに主人を亡くしたことは辛いし悲しい。だけど、一度だって自分は不幸だなんて思ったことはないよ!!!」

「姿形はなくとも、私の心には主人の限りない無償の愛が今でも充ちている。短い間だったけれど、充実したとても内容の濃い生活だった。今でも私は幸せをかみしめているよ」

「それをなんだい。敷居またいで開口一番そんなことは言われたくもないし、そんな貧しい心しか培えない信仰なんか全く興味ありません」

 以前、月刊誌『大法輪』において、楠山泰道上人が「純粋な批判精神そのものに自己を位置づけるということが日蓮上人の跡を追う法華信仰者としての有り様として正しいと考えるのか、それとも、その範疇を越えて現実の政治や経済を射程に入れて自己の欲求を形るものまで実現していくことこそが正しいと考えるのか、この分岐するところに、日蓮宗と創価学会の認識に大きな違いがある」と論じていたが、創価学会に限らず、宗教は、熱心あまると結実するところ他を相容れず、団体の意識に個人の意識が飲み込まれ、自己に向けた批判精神を失い、他に意識がまったく向かず、かりに自らの精神性・意識が低級なものであったとしても、それに気づかず、正統な信仰を名の下に自己を防衛し独善的な信仰者になってしまうきらいがあります。
 上記叔母の逸話。叔母は普通の「おばさん」ですが、誰よりも真の幸福を理解していました。叔父の冥福を祈念申し上げます。 合掌
                                                                          


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