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住職雑記

 宗教とは感性を高め、常に普遍的な大いなる世界を感じるべきです。井の中の蛙の如く、既存の価値観や世界観に固執し、それが絶対的と錯覚し、その世界観で物事を判断し批判を繰り返すのは保守的であり、きわめて偏狭であります。
 保守的な世界では、自らの過去やその業績功績を懐かしむことも多々ありますが、その過去の業績や功績も、自らの評価と他者から見た評価とでは、だいぶ温度差のあることも多く、そして、自らが自負していた保守世界が普遍性に否定されていくと、その自負は執着や妬みに変化してしまうのです。支配欲がそうさせる場合もあります。これらの行為、欲望は、魂を養い宗教性を高めるには非常に弊害になるので気をつけねばなりません。
 崇高な精神性の完成へと歩んでいる生き方とは、自らを律し、保守的または利己的に陥らず、常にグローバルな視野を身につけ、他者と競ったり、信仰の長短や深浅を比べたりもせず、ただ魂の向上に努め、打算なく利他行を実践することです。その実践徳目の修行道場が寺院です。寺院が皆様の崇高な努力によって力をつけたなら、皆様の幸福に繋がり、六親九族先祖に至るまで功徳が及ぶでしょう。その瞬間、「私が、俺が」は意味をなしません。まさに釈尊の「今この三界は皆これ我が有なり」、自他を超越した境地へと近づくのです。
 そのような正しい修行や供養を神仏はしっかり見ておいでだし、その行為はわざわざ自負せずとも、自然に世間に評価されていくものです。
 以前、自らが申し込んだ御祈願の御札受け取り待ち時間が長く(5~10分たらずなのですが)憤慨している人がいたようです。病院の待ち時間に比べればだいぶ短いと思いますが・・・・
 ご一族の幸福を自らの意志で神仏にお願いし、(本来、人は神仏に使われる立場です。しかし大いなる慈悲で神仏が働いてくださっているのです)
そのうえ「まてない。こんなことだったら御祈願を止めてしまおうか」
 など、罰当たりもいいところで、そんな我欲に犯された御祈願などはかえって罪障をつくるのでしない方が無難でしょう。
 神仏は、正しい生き方を目指す人には、ビックリするくらいの功徳を与えてくださいます。その人のために働いてくださいます。
 どうぞ、少しずつ心の鏡を磨き、神仏に見守られながら輝かしい人生を送ろうではありませんか。                                                       合掌
                                             本要寺住職 日梵九拝


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