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住職雑記3~どこまで個人の権利や人権を守るのか~

 皆様は鬼子母神の説話をご存知でしょうか。鬼子母神には愛すべき何百人もの子供がいましたが、他者の可愛い子供を食したいという欲望が湧いて、どうしても止められず、遂に他者の子をさらっては食していました。ある日、鬼子母神が家に戻ると最愛の我が子のうち、末っ子の姿だけが見当たりません。他の子に聞いても分からず、憔悴しきった鬼子母神はお釈迦様に助けを求めます。

お釈迦様
「あなたには他に何百もの子供がいるではないか、1人くらい問題にならないであろう」
鬼子母神
「親であれば、たった1人の子供であってもかけがえのない存在です」
お釈迦様
「何人子供があろうとも親は悲しいものである。それでは、なぜ人の子を盗んで食うのか。同じ親であれば、かけがえのない子との別れがどれほど辛いか理解できるであろう」
鬼子母神
「自らは大きな過ちを犯していました。今後は常に自らの心を律し、仏法を守護することで罪障消滅をしてまいります」

 この仏教説話は非常に有名ですが、最近は「赤ちゃんポスト」や、親が子を殺すといった凶悪な事件が後を絶たず、現代日本は建国以来いちばん乱れた世になってしまいました。いわば、身勝手な人類の象徴が鬼子母神だったのですが、いまやその鬼子母神が自分の子供にまで手をかけ捨て始めました。
 いま「赤ちゃんポスト」について賛否両論あります。拙僧は身勝手な親の匿名性の下にかけがえのない子供の命が踏み台になっていることに憤りを覚えます。
 皆様も一度や二度は経験があるでしょう。人生には大なり小なり気まずいことや、なんとかその場から逃げてしまいたいということがあります。一生懸命言い訳を考えたりもします。しかし、決意を持ってその場から逃げずに立ち向かうことが大切だったりするのです。逃げずに問題を解決した際の達成感は何ともいえません。人格・精神性の向上にも繋がるのです。
 ましてや、この問題は命に関わることです。身勝手な親の体裁など問題にならないでしょう。先日、3歳の男の子がポストに入れられた(もはや3歳児ともなれば押し込まれたか)ニュースが報じられましたが、3歳であれば意識もしっかりしているでしょうし、心の傷を背負って生きなければなりません。親の氏名も判っているそうです。しかし、匿名性を重視して調査は打ち切られたそうです。それでなくても自分勝手な人間が増え続け、個人主義を助長させる社会教育がなされているのに、どうしてそこまで個人の権利を守るのでしょうか。
 子供の救命第一主義はごもっともな理由でしょうが「赤ちゃんポスト」は全く不完全なものです。「仏作って魂入れず」とはこのようなことを言うのでしょうか。その最終的な手法に至るまでには多くの道が残されていることを考え、その多くの道を示すことこそ心血を注ぐべきで、これこそ個人国家挙げての再生への道です。
 日蓮聖人は
「木陰にたまたま一緒になったのも、たかだか同じ河の水を汲んだだけでさえも、過去の生まれかわり死にかわりの間に結んだ因縁があったからというのに、まして現世において親となり子となるということは、過去世においてどれだけ深い因縁があったのであろうか」

「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。父母和合して我を生みたるは、我が体全体父母の体なり。たとえば種と果実と、体と影のようなものである」
 と、親子一体の理を示されました。
 近い将来、この国は高齢化社会になります。老人の面倒を見ることが生活の負担となり、誰にも相談できず、親不孝者と世間から罵られるのが恥ずかしく、その種の凶悪事件が横行した挙げ句、人倫の道理を説く以前に、匿名性をふりかざした姥捨て山ならぬ「おじいさんおばあんさんポスト」が出来やしないかと心配でなりません。本要寺 日梵


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えひめみかん

負担はできるもののところへ回ってくるのです。

どうしても子供を育てられず、命を落としたり、虐待され続ける
子供が多くある現状においては、愛情のある受け入れ態勢だと
思うのです。あってはならない事が、実際にはあり続けているのですね。
愛があり、手間のあるものが、守って行けるといいです。
すべての子供の命が。

鬼の親にわずかに残された人の心が、
子供を捨てさせるのかな。
by えひめみかん (2007-06-06 18:24) 

日梵

えひめみかん様

コメント感謝申し上げます。

>鬼の親にわずかに残された人の心が、子供を捨てさせるのかな。

 仏教の素晴らしさは、色々な角度から物事を考察できることであると常より申しておりますが、上記ご意見は非常にやさしいお考えであると思います。確かに、その辺に捨てる親を思えば、安全な施設まで、わざわざ遠路足を運ぶ親は人の心があるのかもしれませんね。

>愛があり、手間のあるものが、守って行けるといいです

 そうですね。ただし、その方法には多大な議論の余地があると思います。鬼の心が子供を捨てさせる一面も見逃せないからです。本質に的を得ていない救済は時に単なる逃避を助長してしまう嫌いがあります。
 「仏の顔も三度まで」と言いますが、釈尊も過ちに対しては数回は認められたようですが、それ以後は厳正であったようです。
 お寺には、借金苦など色々な悩みを抱えた方が来ます。その中で良く感じることは、まだ多くの道が残されていることに気づかず、現状で一番楽な方法に飛びつこうとしている人が多いのです。そこで、最終的にどうにもいかなくなったらその方法もあるだろうが、他の方法もある旨を真剣に話し合います。
 現代の世情を観ずるに、謝罪する事は敗者であり、非を認めない若者が多いように思います。謝罪は清らかであるはずです。
 わがままな個人主義や自己主張(良い部分もあるのですが)が尊重される世の中なので、一部の今時の若者は反省や忍耐努力をしなくても、とりあえず生活できます。相手がどのような意図で意見を述べているのかも理解しようともしません。愛のムチが通用しません。それでは相手の厚意や優しさも理解できません。そこにあるのは自分の欲求を満たすか否かだけ。職人の世界でも先輩が注意をすると次の日から勝手に来なくなってしまう。ある板前さんも「最近は先輩や師匠が後輩や新人に気を遣うと」言っていました。親ですら、子供に気を遣っている姿を見ます。
 自分の思い通りになるととても満足する。そうでないと不機嫌になるか逆ギレする。 法事などでお寺に来る若者だけ見ても、考えられないようなことが増えてきたように思います。

 気まずい行動にポストという免罪施設をつくることによって、大義名分を与え、その間の多くの方法やの思考が吹っ飛んでしまうことだけは避けなければなりません。
 
 しかしながら弱者の命は何としても守らねばなりません。ポストから大きくなった子供が望むなら、本当の親を知る権利はあるでしょう。匿名性を尊重するとしても、無期限に預かる用意はあるが、せめて所在だけは病院に知らせる方法も有りと思います。

 先日、久しぶりに当山に子供の声が響き渡りました。その子達のお母様の振る舞いや、子に対する接し方や話し方は保母さん、もしくは教会のシスターのように映りました。抱かれたくなるような慈悲を感じました。久しぶりに幸福感に包まれたことを付記します。
 
by 日梵 (2007-06-06 20:58) 

えひめみかん

先日は娘たちが大変お世話になりました。
すごくすごく喜んでいました。
導師様も奥様も優しくて、このお寺に守られた
地域ならば、子育てもうまく行くだろうなと思いました!!

最近の人間は核家族化(経済効率が根底にあると思います)に
よって、人と触れ合うことが少なく、ただ、学校という経済的強者
になる教育のみを受けて導師様のような暖かい人の教えや心を
教わる機会、家族で過ごす時間(テレビや仕事、塾で会話がありません)
自分より小さなものやお年寄りの世話など、人として基本的で
とても大事な教育が、おろそかになっているのです。

子を捨てる前に他に方法があり、そのようなことはしてはならないと
厳しく教えられるべきは親たちで、親が気づくまでの間、
どれほどの時間がかかるでしょうか、その間は子供が守られる
ほうが良いと思います。

片手落ちではありますね。
by えひめみかん (2007-06-07 08:55) 

みかんです

私が先月新聞に投稿した文章です。

 親としての心得や道徳を説いた親学の授業への導入案はどうやら見送られたようだ。
 中高生があかんぼの育児を目にする機会は皆無。勉強しかしていない子供が、急に親になるときがくる。兼ねてから、学校で避妊の方法だけを教えて、家族を育む方法は教えない。性教育はあって、相手を思い子供を育てることは伝わらない現状は不自然だと感じていた。
 本来ならば家庭や社会が育児の手本となったのであろうが、核家族化が進んだ昨今では到底無理である。私の子育ても、布オムツの形やたたみ方も知らず、不必要な手探りが多かった。なので、お互いの伴侶を思い、子育てを分担するような教育があれば、これからの若い人の子育てが質の高いものになるし、思いやりの心に気づけば本当の意味で避妊も伝わってゆくと思う。
 しかし、親学を提案した人も気づいてもいないが、大人のための介護学も必要だ。みんなお母さんから産まれて、年をとってゆく。介護は、する側とされる側双方の思いやりがないとうまく行かない。自分の経験から、育児より介護の方が大変だった。すべての人が迎える老後が寂しくて辛い物であってはならないとおもう。
by みかんです (2007-06-08 17:01) 

日梵

みかん様
 「親学」についての投稿。ありがとうございます。投稿意見は問題点を的確に捉えており、高い見識をお持ちのご姿勢に感服いたしました。まったく同意見でございます。
 日本のお年寄りは、金目当てに若者に殺されたり、鬱陶しがられたりと辛いニュースが後を絶ちませんが、アフリカなどでは年長者の死は何より悲しい事です。学校では到底学ぶことのできない智慧を有しているからで「図書館を一館失うに等しい」と例えられるようなものでしょうか。
 先輩老人は一番親しいご先祖様です。老人の命の重みを通じて、生命の尊厳やご先祖様をも観じていけるような社会を築くことができれば、このうえない幸福です。
いずれにしても、人間は世代を問わず命ある限り一瞬一瞬がご修行ですね。
 拙僧も、「親学」や「介護学」というテーマを投げかけていただいたので、今以上に考察してみたく思っております。ありがとうございます。 日梵
by 日梵 (2007-06-20 00:41) 

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